三室戸寺卍10番

黄檗山萬福寺から

 

 

西国三十三所観音霊場第10番目の札所

三室戸寺に移動しました

 

 

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雲一つない秋晴れ~~~


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紅葉が素晴らしい~~


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狛蛇

 耳も髭もしっぽも

撫でて撫でて撫でまくり~~~笑

 


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宝勝牛

 

口の中の玉の石 撫でまくり~~~笑


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本堂

 

 


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福徳兎

 

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球の中の玉子

必死で立たせました~笑

 


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朝鮮鐘の龍頭

 

こちらも撫でまくり~~~


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阿弥陀堂

 


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鐘桜


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三重塔


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HPから。。。。。。

 

夜もすがら月をみむろとわけゆけば 宇治の川瀬にたつはしらなみ

の御詠歌できこえる西国十番の観音霊場、明星山三室戸寺

観音応現の霊地であり光仁天皇勅願の精舎である。

今から約1200年前宝亀元年(西暦770年)

光仁天皇が宮中に毎夜金色の霊光がさし込むのを御覧になって

この奇瑞を大変お喜びになり

右少弁犬養に勅して霊光の源を尋ねさせられた。

犬養は勅をうけ早速宇治川の支流の志津川の渓流に沿って登って行くと

古樹がうっそうと生い茂る中に水が青く澄んでいる清淵があり

そこは塵境を離れた幽寂の地で

流水の響きは煩悩の垢を洗う心地を起させたのである。

犬養が清淵に近ずくと

御丈、二丈余り、相好円満、光明赫々とした、千手観世音菩薩まぼろしのように

清淵の中から出現されたのを見た。

犬養は随喜の涙を押え掌を合せ厚く頂礼して

清淵に飛び入りこの御仏を抱き上げてみると

さきほどの尊容ではなく御丈一尺二寸の二臂の尊像と化していられた。

犬養は都に立ち帰り事の始終を天皇に奏上申し上げると

天皇の叡感殊の外深く

早速宮中に尊像をおむかえになつたが

その後行表禅師を招き、御室をこの地に移して

この尊像を本尊として安置して御室戸寺と称するよう勅されたのである。

光仁天皇が御室戸寺を御建立以来

本尊の観世音菩薩は無比の尊像として勅封にされていたが

御子桓武天皇延暦24年に尊像を開扉して大供養を営なまれ

白壇木をもって御自ら最初出現の千手観世音菩薩像を二丈一尺に彫刻され

彼の正身の尊像を胎内に納めて

大悲閣を造立し帝都鎮護の御寺とされた。

これより以来33年毎に勅許

院宣によって開扉大供養を営む慣例となったものである。

その後寛平年間に三井寺の開祖智証大師が

当寺に留錫して大いに法幢をかかげ

寺門を中興し又、花山法皇離宮を当山に設けられ

音霊場を巡拝された時には当寺を第十番の札所に定められたのである。

 

 

長和年間には三条天皇が法華三昧堂を、又、白河天皇常行三昧堂建立され又荘園をも寄進せられた。その後、堀川天皇は、住持、隆明大僧正に深く御帰依になり、伽藍を増修され、又、羅惹院本尊尊星王護摩料所として、武蔵国中茎郷領家職の官符を賜わった。

羅惹院は白河天皇の御願によって三井寺の寺中に建立された一院であった。

隆明大僧正は、初め、三井寺に住して長吏となり、天台宗寺内派を統御された高僧であるが、そこを辞して後、当寺に移りその時共に羅惹院を移転し、伝持の仏像、経典を悉く、ここに納められたのである。隆明大僧正は、御室戸の僧正と称せられてその高徳は普く天下に知られ、法幢は益々盛んになったので、白河法皇の皇子、静証法親王は当寺にお入りになり隆明大僧正を師として修習されたので、御室戸宮と号せられた。

当寺創建以来、光仁、花山、白河三帝の離宮になったため、この頃から、御の字を、三、に替え、三室戸寺と称するようになった。

白河法皇が、熊野参詣の際には、当寺に於て、17日間の護摩供修行がされたので、これ以来、熊野検校宮の入峰に際しては、17日間の御修行が佳例となったものである。

以上のように開創以来、歴代天皇の崇敬を集め、寺域も漸次拡張されて、伽藍坊舎が年を追って増加し、輪喚の美を極めたのであるが、後花園天皇の寛正3年12月13日、食堂より出火し、貝吹堂、観音堂、彼岸所、西塔院、常行堂、宝蔵と延焼し、大伽藍も悉く烏有に帰してしまつた。その際、桓武天皇御願の白檀木の大像は火災の中に消え失せたが、正身の本尊はじめ常行堂本尊の阿弥陀三尊、隆明大僧正念持の釈迦如来立像等の尊像は猛火を脱したのである。

後土御門天皇の文明14年、三井寺阿弥陀院の、壱阿、は観音堂再興の勅意を受けて、諸堂の再建にとりかかり、文明19年7月落慶し本尊開帳の大法会が厳修された。導師は、聖護院宮准三后興大僧正であり寺門の龍象悉く集り、宮中からは勅使、柳原大納言が参向され、且又、将軍足利義尚も拝賀参列したのであった。

寛正元年炎上以来廃墟の内にあること28年に及んだが、ここに再び法幢が高くひるがえることとなったのである。

このようにして、再び寺運隆盛に向ったが、天正元年、織田信長足利義昭と宇治槇島で兵火を交えた際、当寺の衆徒が将軍義昭に味方したのを恨み、その後、信長が天下の権を掌握した時に、寺領を悉く没収したので、これより寺運衰退に向ったが、寛永16年、道晃法親王によって復興せられた。

明和年間頃、堂宇が再び廃頽し、忍興和尚の時、改築を計画したが果すことができず、文化11年になって、法如和尚の力によって漸く本堂の改築が成就したのである。

これが現在の本堂で発願してから落成までに、三十有余年の歳月を費したものである。

以上のように幾多の興亡盛衰を繰返したが、光仁天皇の開創以来千有余年の間、上は皇室より下は広く庶民にいたるまで、私達の悩みの一切を必ずお救い下さる、大慈大悲の観世音菩薩の信仰の中心として、三室戸寺への尊崇は厚く続けられたのである。

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