HPから。。。。。。
後、同所に後円融天皇、康応元年(一三八九)龍華殿を御建立せられ、
御宸翰を下して妙法写経を始められる。
両帝は屡々行幸になり開山竹厳聖皐上人に聞法受戒せらる。
晏駕に先立ちて剃髪染衣せられ、
上人の引導を受けて背後の山に埋葬し奉ったのである。
開山上人は応永九年(一四〇二)に入寂され、
応永十二年の盂蘭盆会の夜には早くも諸堂を焼失したが、二十年後には後小松天皇の行幸により、応永三十六年の頃には全安上人再建を見事に遂げている。
共に当院の聖汎上人、全安上人の奉仕によりて先代と同所に埋葬申し上げている。
明応八年(一四九九)後円融天皇の御影を
土佐光信に画がかして勅賛を御土御門天皇にお願い申し上げ、
之が今日重要文化財として保存されている。
その御使用の御黒戸御殿は文亀二年、
後柏原天皇より下賜され妙法修殿と称し写経の道場とせられたのである。
戦国時代より桃山時代を経て、徳川の始め中興の祖、如周宗師が雲龍、
龍華両院を合併して雲龍院のみとす、
この事が御水尾天皇の叡聞に達し
造営費御下賜の恩命に浴し写経の道場を現在の位置に再建せられる。
たまたま寛永十九年が本願、
写経会に要する仏具百余点の御寄付を賜りて立派に再興を遂げた。
如周和尚以後、
徳川泰平の御代本願天皇の後国忌の折々に御下賜金を賜りて諸堂の修理を行い、
この間鎮守堂、
鐘楼等の建立がなされ東西に僧坊を設けて諸方より各宗の門徒集まり、
研鑽を励み多くの俊英を輩出した。
仁孝天皇両皇女、
孝明天皇の両皇女を後山に葬り奉ってより再び深くなり玄関、
方丈、勅使門を賜り次いで歴代の御尊牌を奉安する霊明殿は慶応二年に始まり、
英照皇太后の思し召しにより明治二年現存の様に再建された。
れんげの間
椿、燈籠、楓、松の4つの違う景色が切り取られて見える「しきしの景色」
大輪の間からのお庭
丸い窓は禅の世界で「悟り」を表現している
JR東海のCM「そうだ京都、行こう」の中でも紹介されています
帰り 駐車場まで道に迷い
宮内庁管轄の宮墓地の前を通りました~